|
|
竹中半兵衛(竹中重治)の最期
病にかかった竹中半兵衛は、秀吉のすすめもあり良薬が入手できる京都で療養
していましたが、自らの病が回復の見込みがないことを悟ったためか、死に場所
は戦陣でと思い定めて、平井山にもどりました。天正7年6月13日、病没。後
の人は、半兵衛を、「五丈原の戦い」で陣中に病没した蜀の軍師・諸葛亮孔明
(『三国志』に有名)に、なぞらえました。 |
|
|
豊鑑 ※寛永8年(1631年)、半兵衛の嫡子・竹中重門著
|
秀吉卿のわざ何事に付ても、たのもしき人に思ひ給ひし、竹中半兵衛主例ならず心ちなやみしを、業の道しる
人もてさはきけれど、験なかりければ、京にこそ業の聖も有とて上りしに、少おこたり様なれとも、猶心ちさ
はやく様にもなけれと、播磨にて死なんこそ軍場に命をおとすに同しかるへしとて、いまたなやみながら、秀
吉の御座し平山(平井山)に行て、六月中の頃終に失にしそかし。秀吉限りなくかなしひ、劉備孔明を失ひし
に異ならず、されど城は日々に弱なり行て、今なてうことかあらん。
『新修垂井町史 史料編』より
※『群書類従 第二十輯』に載せる「豊鑑」は、業の道、業の聖を、薬の道、薬の聖に作る。劉備を、劉禅に
作る。
|
寛永諸家系図伝 ※寛永20年(1643年)完成。三代将軍・家光の頃、
徳川幕府が大名・旗本に提出させて編纂した公的系譜集
|
重治 半兵衛 生国同前住所同前
齋藤山城守道三が孫龍興、岐阜の城に在し時、重治十九歳、故ありて弟久作十七歳と同しく、士卒十六人を引
いて岐阜の城にいり、重治城の在番頭齋藤飛騨を斬りころし、其外敵あまたうち取りて遂に岐阜の城をとるに
より龍興ついにのがれ去る。時に永禄七年二月六日なり。織田信長より重治方へ数度使をたてゝ、彼城を相渡
すへきよし告来る雖、父遠江守(竹中重元)齋藤道三に属するのよしみある故、城を龍興に返し渡す。其後重
治浅井備前守に属して、又こゝを立さりて信長につかふ。信長の命により、豊臣秀吉に属して与力の謀臣とな
る。天正三年長篠合戦の時、信長に従ひて戦場におもむく。同七年六月十三日播州三木にて病死。歳三十六。
秀吉はなはだ是を惜みて、軍の評議ある毎にかならず重治が事を言ひ出せり。
『新修垂井町史 史料編』より
|
黒田家譜 ※貞享4年(1687年)、貝原益軒著
|
天正七年 孝高三十四歳 松壽十二歳
六月十三日、竹中半兵衛重治、幡州(播州)三木の向城平山(平井山)の陣所にて病死す。年三十六、此人知
略武勇あり。信長公につかへて秀吉の先備となる。秀吉甚其死をいたミ惜ミ給ふ。
『新訂黒田家譜 第1巻』より
|
竹中家譜 ※貞享5年(1688年)、竹中与右衛門尉重信著
重信は半兵衛の玄孫(重治―重門―重次―重良―重信)
|
天正七年四月重治、三木の向城於平山(平井山)病に罹る。衆医是を癒すれとも験なし。秀吉の命として京師
に赴き病を養ふ。微験有といへども、大験を得がたき故、同死せん命陣屋と枕とせんは武夫の大望也。強て平
山(平井山)に帰んと云。従者諫れ共不用、終播州平山(平井山)に至て、六月十三日於陣屋死す。年僅に三
十六歳。秀吉甚慟惜し給ひ、劉備孔明を失ひし如しと宣ふ。すでに死せんとする時、秀吉陣屋に来給ひ、手を
取て宣ひけるは、其方死せば誰をか先手として我軍を預へきや、重治いはく当時の人を見るに、其器に叶える
ものなし、然れども神子田半衛門、奇変を見る事眼中芒にて切しほと明へし、外には可なるものなしと云畢て
死す。
神子田氏は、其節数度の武功顕然たり。然とも半兵衛是を見る事嬰児のごとし。其大胆爰に於て顕る。重治
人となり大志大望ありし故、信長公秀吉も心を免し給はず、国を与へ給ふ事もなく、人数を附彼を労し給ひし
斗なれば、実は其威を奪んと也。重治其心を校量し、三木の城落せば、高野山に登り、閑居幽静の身と成て身
を全し、世の変化を見んと思ひしと也。惜哉年を尽する事短し、志を遂る事あたはず、此間所々の軍陣、武功
の誉数多あるべけれとも、伝はらされば不録、惜哉。
『新修垂井町史 史料編』より
|
寛政重修諸家譜 ※文化9年(1812年)完成。『寛永諸家系図伝』の続集
|
重治 半兵衛
永禄七年二月六日重治故ありて弟久作某とゝもに、士卒十六人を率ゐて齋藤龍興が居城岐阜にいたり、みづか
ら城の在番頭齋藤飛騨をうち、其外敵數多を討とり終に城を奪とる。
ときに織田右府(信長)よりしばしば使をたてゝ城を渡すべきよし申送るといへども、父 遠江守某(竹中重
元)道三に屬せしよしみあるがゆへに、これに應ぜずしてふたゝび城を龍興に返し、淺井備前守長政に屬す。
そのゝち織田右府につかへ、命によりて、豐臣太閤に屬し與力の謀臣となる。天正七年六月十三日播磨國三木
の陣中に死す。年三十六。法名水徹。彼地平井村の山中に葬る。
『新訂寛政重修諸家譜 第6』より
|