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北近江長浜城主・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、織田信長に抜擢されて、中国地方を支配する
強大な戦国大名・毛利氏攻略の命をうけます。
織田・毛利両勢力圏の中間に位置する播磨国にはいり国衆とともに中国攻めにむかう計画は、最
大の勢力を持つ東播磨三木城主・別所長治が毛利方についた事で失敗。
戦国日本の覇権をかけた織田・毛利激突の最前線が三木合戦で、天正6年(1578年)〜天正8年
にわたる、秀吉の最も長い戦いになりました。 |
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羽柴秀吉が三木城攻めの本陣とした付城です。美嚢川と志染川の間に面した山上に位置します。南西に三木城を望むことができます。
天正6年(1578)7月、織田信忠が当地に着陣して築城し、羽柴秀吉に引き渡したとされます。10月15日、秀吉は平井山に津田宗及を招き、記念すべき初めての主催となる茶会を開催しました。同22日に別所方が襲来して平井山合戦が繰り広げられ、別所治定などが討ち死にし、別所方は敗北しました。
城の構造については、数多く残る三木城攻めの付城群の中で最大の規模を誇り、三木城の反対側の谷部に雛壇状の曲輪(くるわ)群を設け、軍勢の駐屯部を確保しています。これは、三木城から付城内の軍勢の状況が見えないようにするためといえます。
なお、秀吉本陣跡の位置については、従来は当城の谷を隔てた北側の山上の城跡とされてきました。しかし、江戸時代前期に描かれた『諸国古城之図』(浅野文庫所蔵)に収められている「播磨国平井山」の絵図を頼りに現地確認及び測量調査を実施したところ、当城が絵図と酷似していることが判明しました。これにより、この地点が秀吉本陣跡であることが明らかとなりました。
(三木市 ホームページより)
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「播磨 平井山」(浅野文庫蔵「諸国古城之図」より)
所蔵:広島市立中央図書館
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長浜城主・羽柴秀吉像(石田三成との出逢い:JR長
浜駅前にあります) |
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竹中半兵衛重治は、戦国時代を代表する軍師・参謀とし
て知られる武将。はじめ美濃国守護・斎藤龍興につかえて
いましたが、不和が生じて、龍興の居城・稲葉山城を総勢
わずか18人でのっとり、主君を追い出します。その後、
城を龍興に返し隠棲、やがて織田信長の家臣となり、秀吉
の与力として幾多の戦場で活躍しました。
ところが三木合戦のさなか病を得て、一時京都で療養し
ますが、陣中にもどり、天正7年6月13日、病没しまし
た。36歳。
墓前の石灯籠は、竹中家十代目・竹中重寛の墓所整備で
造立されたもので、文化3年(1806年)の刻銘があり
ます。 |
「竹中半兵衛の墓」駐車場は平井公民館横に設けていま
す(手前約300m) |
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竹中半兵衛像(岐阜県不破郡垂
井町:竹中氏陣屋跡にあります) |
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