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三木平井山観光ぶどう園戦国ロマン>墓所整備
 


■■弟・竹中久作
 


 竹中半兵衛は、平井山に落命しました。陣没した半兵衛の名代として、織田信長は竹中久作を名代として、

すぐ(6月22日)秀吉の陣に派遣しています。陣中のことではありましたが、弟による寸時の弔いはおこな

われたのではないでしょうか。

 


■■嫡子で竹中家3代目・竹中重門
 


 竹中重門は当時7歳。8年後、天正15年(1579年)には、重門は半兵衛の遺領・美濃国岩手に禅幢寺を

興し、墓も設けて、郷里で亡き父の菩提を弔いました(禅幢寺は旧領主岩手氏の菩提寺で、このころは衰微。

重門の再興後、代々竹中家の菩提所となりました)。

  その後、徳川の世に移り、半兵衛の子孫は、大名並の高禄旗本として、家を保っていきます。そのなかで

「終焉の地にある墓」を、竹中家がかえりみることはなかったようです。

 


■■竹中家10代目・竹中重寛

 


 半兵衛没後226年の文化2年(1805年)、平井村を老武士が訪れます。竹中重寛がつかわした神田弥

五兵衛登啓です。

 村人が戦国の世から営々と守り続けてきた半兵衛の墓。大きな土盛りの上には、三樹が根をはり「竹中半兵

衛重治墓」と刻まれた墓標がたっていました。庄屋太右衛門と年寄新右衛門に出会った神田弥五兵衛は、これ

までの供養の礼をのべた後、竹中家として墓所の整備を申し出ました。

 このとき、まず石灯籠の建設ほか諸用の費えに一両一分を差し出し、その後、あらためて十両を送ることを

約束して、帰りました。

 墓所整備の様子は神田弥五兵衛と太右衛門、新右衛門の書状よりうかがえます。文化5年頃にかけて整った

ようで、竹中家より送られた計11両1分の使途は石灯籠の建設、地所三畝を購入しての墓域拡張、供養継続

のための収入源となる地所・山林の購入、等でした。

 命日に村人が業を休んで、半兵衛を追善供養する習慣も、この頃にはじまりました。

 

                                   文化2年閏8月の受領証

                                   文化3年2月7日の手紙

                                   文化3年12月3日の受領書

                                   文化4年12月3日の手紙

                                   文化4年12月の約定書

                                   文化5年4月9日の手紙

                                   (文化5年カ)8月9日の手紙