半兵衛没後226年の文化2年(1805年)、平井村を老武士が訪れます。竹中重寛がつかわした神田弥
五兵衛登啓です。
村人が戦国の世から営々と守り続けてきた半兵衛の墓。大きな土盛りの上には、三樹が根をはり「竹中半兵
衛重治墓」と刻まれた墓標がたっていました。庄屋太右衛門と年寄新右衛門に出会った神田弥五兵衛は、これ
までの供養の礼をのべた後、竹中家として墓所の整備を申し出ました。
このとき、まず石灯籠の建設ほか諸用の費えに一両一分を差し出し、その後、あらためて十両を送ることを
約束して、帰りました。
墓所整備の様子は神田弥五兵衛と太右衛門、新右衛門の書状よりうかがえます。文化5年頃にかけて整った
ようで、竹中家より送られた計11両1分の使途は石灯籠の建設、地所三畝を購入しての墓域拡張、供養継続
のための収入源となる地所・山林の購入、等でした。
命日に村人が業を休んで、半兵衛を追善供養する習慣も、この頃にはじまりました。
|